木更津から海ほたるを通って、東京まで、
ぼくたちはずっと、 車窓の右左に見え隠れする三日月に見守られていた。 そしてちょうどその頃、旭川の写真家M氏が亡くなった。 彼の配偶者が亡くなって7か月後だった。 彼とは30数年のおつきあい。 1週間前に電話した。「会いたいなぁ」と言って泣いていた。 「春になったらね」と返事した。長い長い弔電を打った。 旭川が、突然、遠い街になってしまった。 若い頃、多大な影響を受けた写真家の一人に柿沼和夫氏がいる。彼の最も 新しい写真集、「柿沼和夫の肖像写真」の中に、詩人谷川俊太郎がこんな ことを書いていた。「写真は外面を写し取るだけでなく、顔を通して、ま た姿を含めたたたずまいを通して、その人の全人格を提示できるメディア だ。」 確かに、写真は誰の眼でも見ることができる。しかし、眼だけでは見えな い物が存在するのも事実だ。例えば、被写体の静かな眼差しにの中に見え 隠れする意志、悲しみ、不安、喜び、躊躇い。あるいは、闇のような黒い 背景に感じる光。それはまるで、ブラックホールの中に閉じ込められてし まった光を見る思いがする。 広辞苑の「肖像」をひもといてみると、「特定の人物の容貌、姿体などを 写し取った写真、彫刻、似すがた」とあるが、この「など」という部分が ひょっとすると大切な部分ではあるまいか。 全人格を提示してしまう写真。となれば、写真家も全人格で被写体に向か い合わなければならない。言葉で言ってしまうと少々おおげさになってし まうが、私の場合、ただがむしゃらに撮り続けることがそれに近い。昔か らすべてのことに夢中になる私の性格が、ここにも現われてしまう。 そして、被写体に無我夢中で向き合っていると、時として自分の心がふと 無になっていくことがある。おかしな話だが、写真家と被写体の区別が不 明瞭になってしまうのだ。人物ではなく、二人の「関係」を写し取ってい る感じに近い。場合によっては、耽美や形を求めて被写体の光と影を切り 取る。獲物を狙う動物のようにシャッターを押し続ける。その時間の中で 私が感じているもの。それは、人間を含めたすべての命に対する慈しみ、 感謝、恐れなのかもしれない。
by ksfarm
| 2010-10-13 10:43
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